剪定鋏を作り始めたのは阿武隈川宗寛という刀鍛冶とされています。
「廃刀令からすぐの明治3年に日本で最初に剪定鋏をつくった」
ということが、阿武隈川宗寛工場の製品のしおりに記載あり。
どうやら1870年頃から、私たちが目にする山形県タイプの剪定鋏の歴史は始まっているようです。
※これとは別系統で青森県内に津軽型剪定鋏が130年ほど前から作られ始めています
山形県内で剪定鋏の製造が始まったのは
明治25年頃(1892年)のこと。
野鍛冶職人だった最上川屋の松本弥三郎さんという方が
後にB型と呼ばれる剪定鋏をつくり始めました。
現在、さまざまなフルーツの産地となっている山形県。
果樹農家の方々が使う道具は、この山形県型の剪定鋏です。
しかし、100年ほど前の山形県内は
果樹ではなく蚕糸業が盛んで
桑の木を剪定することを目的として剪定鋏がつくられていたとのこと。
その最上川屋の松本弥三郎さんの弟子として
明治後期から大正時代に活躍したのが衡田久作さん。
村久の初代で、多くの弟子を育てました。
他の記事にも書いていますが、鋳物のボディと鍛造で作った刃を
真鍮蝋付けで接合するA型を開発したのは、この衡田久作さんです。
独立したお弟子さんを見ても、豪華なラインナップです。
清印(工藤製鋏所)※〇に清という字の刻印です
飛庄、
五光、細谷、丸三郎、良輝、真室川
など、さまざまな剪定鋏鍛冶を輩出してきました。
衡田久作さんは、人を育て、文化を育てる方だったのかもしれません。
しかし、安い大量生産品が世に出始めててから
手づくりの鋏づくりは需要を大きく減らします。
現在にも生き残り、方々でもよく見かけるのは
工藤製鋏所さん、飛庄さんあたりになっています。
※ある程度は追ってみましたが、現在までどう受け継がれているか、不明の領域も多いです。系譜をご存じの方おられましたら、ぜひご教授を。
さまざまな剪定鋏メーカーがいまも山形県内にありますが
最上川さん、村久さん、清印さん、飛庄さんは
山形の剪定鋏を歴史的にも受け継いでいる鍛冶屋さんといえるでしょう。